ベストバウト、MVP、いろいろあると思いますので、宜しくお願いします。
さて、本当は今日はバダ・ハリvsレミー戦について意見を書こうと思ったのですが、自分の中ではFEGの処分待ちっていう気分なんで止めます。
ただ、観戦記で私は「レミーの視点」で書きましたが、これは他のブログをチラ見して、相変わらず一元的な方向からしかモノを見ない書き手が多すぎることへのアンチテーゼとして書きました。
立ってバダをやっつけて欲しい。もしくは、試合できるんだったら続けて欲しいというのはファンの心理です。では、選手の心理はどうなのか。その部分をフォーカスしてみたのです。
格闘技の試合というのは、細かいルールの上に成り立っています。これは、国家における法律ですので、犯せば罰せられます。
しかし、それでも想定の範囲を超えた出来事は存在します。だからこそ、法律もルールも毎年毎年書き換わっていくのです。(中には日本の憲法9条のように全く実態に則していないにも関わらず、書き換えられないものもありますが(笑)。)
「完全なルール」などありません。
一部の浅慮な格闘技ファンは「完全なルール」というのがどこかにあって、それを用意できない主催者が悪いと糾弾します。
例えば、もし何も問題が起きなければ、ルールブックは必要ない。
問題起こって、初めてルールブックに記載されるのですよ。
そして、ルールブックに書いてあることが間違えであれば、それは直せばいい。
当たり前のことです。
誰かが問題を起こした。だから、それを防ぐためのルールを作る。
逆はありません。
ルールの問題が起きれば起きるほど、その競技はどんどん修正されてよくなっていく。
ある種歓迎すべき出来事といってもいいでしょう。
ホンマンvsモー戦でのローブロー、武蔵関連の一連のジャッジング、セーム・シュルトが強すぎること、魔裟斗戦での9-8など、どれも問題があればルールとして修正していく。
もちろん、修正するためには、ファンの後押しも必要です。
そして、いまや無視できない海外……オランダや韓国、中欧のファンの増加もルールをインターナショナル化していく過程に一役買っています。
私は全く心配しないで、どーんと構えてます。
ここ数年のK-1のジャッジングは飛躍的によくなっているのは事実ではないですか?
今のジャッジングに慣れてしまったら、90年代のジャッジングの酷さには耐えられないでしょう。
特に、オープンスコアリングは麻薬ですね。あれは素晴らしい。もう、元に戻れませんもの。
批判してれば「通」なんだと思い込んでいる馬鹿どもに毎度毎度叩かれて叩かれてますが、審判部も仕事をしています。
人気選手や一部の日本人選手に有利な判定は、事実ありました。それは、「人気選手がトーナメントで残らないと茶の間で見てもらえない」という恐怖心、もしくは単なる身内びいきがあるからです。
ところが、特に今回のGP。若手の無名選手が波乱を呼び、往年のビッグネームが1回戦で揃いも揃って敗戦しても、視聴率という数字としてはここ2年間でも最も高いものでした。これは、ジャッジの意識を変えることでしょう。
ビッグネームを揃えることだけがファンに見てもらう方法ではないのだということ。アーツがいなけりゃ、バンナがいなけりゃ見ないというファンはもういないということ。K-1には元金メダリストは必要ないということ。
誰も知らないところで牙を磨いてきた無名の男が、一夜で成り上がるノンフィクションこそがこのコンテンツの面白さなのではないでしょうか。
(このノンフィクション性をパクって作り上げたのが「M-1グランプリ」ですよね(笑)。K-1の概念と全く同じ精神だと思います)
これは、私がK-1ランキング制に反対する理由でもあります。
K-1に序列はいらない。
序列がないフラットな状態から16人が潰しあう。これが楽しみなのに、なぜその魅力を潰そうという提案が出てくるのか、わからないのです。なんでもかんでもアメリカやヨーロッパの規準に合わせるだけでは意味がない。そんなものをグローバルとは呼ばない。ただの隷属です。
ちょっと本題からずれましたが、
緩やかでも変化し続けることで、スポーツは続いていくのです。ルールというものは硬直化したものではなく、絶えず変化するのが「ルールのルール」と私は考えております。
そんなわけで、今回はいろんな意味で格闘技に対する悪い流れを打ち壊すグランプリであってほしいと願います。
これを来年のMAX日本代表決定トーナメントにつなげてほしいですね。
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