武蔵引退に寄せて

先日のK-1WGP2009で、泥臭い打ち合いの末ジェロム・レ・バンナの前にダウンを取られ敗れた武蔵選手。

彼のデビューから、これまでの戦績を振り返りながら、武蔵の85戦は強豪ひしめくK-1の中でどの程度のものだったのかを振り返ります。

武蔵のK-1デビューは、1995年になります。
まだ80キロ台の細い身体で登場した両利きのスイッチファイターは、初戦の相手、UFC出身のパトリック・スミスに左ハイキックでKOを奪い鮮烈なデビューを果たしました。

この頃の武蔵はイケイケのファイトスタイルで、今の”武蔵流”は見る影もなく、荒い印象を受けます。

次の年、K-1 GRAND PRIX '96 開幕戦にエントリーを果たした武蔵は、いまだに語り継がれる伝説の”かませ犬”キット・ライキンズ"ザ・ホワイトドラゴン"をローキックで粉砕。未だ私はホワイトドラゴン以上の弱い選手を知りません。名前のインパクトと相乗効果で記憶に残る選手です。おそらくは後の曙以下ではないでしょうか。それでも無邪気に楽しめた、いい時代でした(苦笑)。

ベスト8ではサム・グレコが負傷したため、あっさり準決勝へ進んだ武蔵は、ベスト4で豪腕ベルナルドと試合をします。ベルナルドはベスト8で無敵の英雄アーツをKOで下し、勢いにのっていました。
この試合はベルナルドが判定で勝ちます。武蔵はトーナメントデビューで、いきなりベスト4まで進んでしまったのです。

ここから武蔵は迷走を開始。

パワーに勝る外国人選手相手にアグレッシブに攻めるスタイルで挑んだ彼は、パワーの壁に跳ね返されます。
K-1初代王者ブランコ・シカティックのパンチが頭をかすっただけで、KOさせられることもありましたし、アーネスト・ホーストの7連コンボでマットに沈められたこともありました。

この頃の武蔵は、全く外国人の中堅以上の選手相手には通用しませんでした。

K-1の人気は高まり、「K-1ジャパン」というカテゴリーが出来てから、武蔵は輝く場所を得ることに成功します。

1999年、K-1スピリットという大会で、開幕戦出場をかけた日本代表トーナメントが開催されます。なんと、参加16人。一日4試合をしなくてはならないという超過酷なトーナメントを制し日本では強いところを示した武蔵。それまで時代を引っ張ってきた佐竹雅昭が年齢的にも引退が近いということで、一気にこの若い空手家への期待が最加速しました。

そして、佐竹とK-1が袂を別つきっかけになった99年の開幕戦。

山のない、しょっぱい試合でした。佐竹が来い来いと挑発するも、武蔵はヒットアンドアウェイ戦法で全く打ち合わず、周囲が疑問の声を上げる判定勝ちを得ます。

そして99年のグランプリ。

対戦相手は、知名度のない、新しい選手の一人だったミルコでしたので、武蔵が勝てるのではないかという向きもありましたが、試合が始まると飢えて狂った獰猛なヒョウのようなミルコのパワーと破壊力にあっという間に心を折られて、背中を向けながら逃げ、最後は左アッパーで沈められました。
この試合でのミルコは、投げやバッティングなど反則スレスレの(むしろ反則)試合を平気で行っていますが、それでも世界と、日本トップの差をまざまざと見せ付けられたK-1ファンは、「日本人枠が必要なのか?」と疑問を持つようになっていきました。

世紀の変わり目あたりから、武蔵はKOを狙わず、判定で逃げ切る”武蔵流”スタイルを確立しはじめます。

しかし、日本人相手には全勝するも、外国人には全敗、もしくは良くて引き分け。
ファンは武蔵のK-1らしからぬスタイルに疑問を持ちますが、彼に勝てる日本人がいないので、ずっとエースであり続けなくてはなりませんでした。

2003年。

ホースト、ミルコら強豪が軒並み怪我で抜けてしまったグランプリ決勝戦では、セフォーとの準々決勝、アーツとの準決勝をいずれも相手選手、ファンが疑問を持つ判定で勝利した武蔵は、決勝戦でレミー・ボンヤスキーと対戦。結果的にレミーが2R以降攻勢に進めて勝ちましたが、この頃の武蔵びいきジャッジはK-1の汚点として後世に語り継がれるかもしれません。

判定を狙い続けるスタイル。そして支持するジャッジ。ジャッジが種目本来が持つ面白さを忘れてしまった「K-1暗黒時代」の到来と言っても言いすぎではないでしょう。

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空手のジャッジというのは、日本で行われる場合かなり日本人寄りの判定を行うのですが、K-1の母体は空手の正道会館であるため、やはりその「伝統」というのは受け継がれており、この異様な武蔵びいきのジャッジスタイルはその流れを正当に汲むものでした。

2004年も準優勝し、レミー・ボンヤスキーがまた優勝しました。この決勝戦も現在のK-1の判定基準であれば延長にいくまでもなくレミーの勝利なのですが(ダウンを奪っていたし)、ジャッジは武蔵を5Rまで戦わせました。

2005年の準々決勝では、ルスラン・カラエフが圧倒的手数を持って武蔵を圧倒しながら、判定で敗れました。このとき彼は「武蔵には判定では勝てないことはわかっていた。KOできなかったボクのミス」と素直にコメントしています。

ゆえに、準決勝でグラウベ・フェイトーザがあの飛び膝蹴りで武蔵をKOした際には、割れんばかりの歓声が上がったことは未だに記憶しています。

しかし、武蔵流にもついに転機が訪れます。

それは外部からもたらされました。

記憶に新しい、「亀田vsランダエダ」です。

圧倒的にランダエダがリードしていたにも関わらず、ジャッジが亀田を支持。世間を巻き込んだ一大論争になりました。
試合を放映したTBSに視聴者から5万件を超える抗議電話が寄せられる大反響だったそうです。

この騒動で浮き彫りになったのは、

「日本人はいかに日本人が勝とうが、不正な判定で勝つことを喜ばない」

というシンプルな事実だったんだと思います。

TBSはK-1MAXを放送するテレビ局です。
武蔵が活躍するのはフジテレビのWGPのほうでしたが、影響は避けられませんでした。

2006年の開幕戦、ラスベガス王者ハリッド”ディ・ファイウスト”と戦った武蔵は、いつもの”武蔵流”を貫きましたが、判定結果はいつもと違いました。ジャッジは2-1で、ハリッドを支持したのです。

日本中を揺るがした疑惑の判定は、武蔵のファイトスタイルでは勝てないようにしてしまう結果になってしまったのです。飛び火もいいところです。

当然、それを象徴するかのように、以降武蔵はKOでしか勝っていません。
判定では必ず負けるようになりました。

そして、2009年。ついに最後のWGP。
ジェロム・レ・バンナ戦は”武蔵流”を棄て、打ち合いを挑み、そしてやはりパワーの差で敗れました。
格闘人生を左右したテーマが振り出しにもどって、そして、現役生活の幕を閉じることになったのです。

”武蔵流”ではもうジャッジは支持しないことを知っていたのか、
それとも最後だけはバンナと拳で語りたかったのか。
当人ならぬ我々に知ることはできません。

ヘビー級の日本人がいかにして世界に勝つか。
その答えを探す旅は、京太郎という名の若い選手に受け継がれました。

一巡して振り出しに戻ったテーマを、いかにして彼が発展させていくのか。
その試行錯誤の帰結を、武蔵には見守っていていただければ、と思います。





*史実と違った部分を書き直しました。

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by the_kakato_otoshi | 2009-10-02 10:00 | K-1

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