一般的な視点ではなく、私個人の視点で紹介します。
思い出話や昔話ばかりする格闘ブロガーを私は評価していないので、
自分は「今」という視点を取り入れて構成しております。
第1回はブランコ・シカティックです。
「なんだこの眼は。普通じゃない。危険すぎる。この眼は放送禁止だ。」
1997年。武蔵と戦うために、再びK-1に戻ってきたブランコ・シカティックをテレビ越しに見つめ、私は正直震えました。
マジになってるとか、そういうレベルではない、何か「恐怖」そのものを覗き込んでしまったかのような。そんな感覚。
第1回K-1グランプリ王者ブランコ・シカティックは、現在警備会社「タイガー・シカティック」の代表取締役として、クロアチアの要人(大統領や大臣のボディガードなど)の警護などを業務とする会社を経営しています。
また、日本クロアチア協会の常任理事であり、両国の要人と会っているそうです。
クロアチアでは知らぬ者はない、超有名人だそうです。
現在、クロアチアの格闘家といえば、大半の方はミルコ・クロコップを思い出すでしょう。
しかし、私はシカティックという超強烈な個性を持ったファイターを忘れないでほしいと常に思っています。
中欧の地中海に面する、ドラゴンの口のような形をしたクロアチア共和国は、1991年に旧ユーゴスラヴィアから独立しました。とはいえ、国内に多くのセルビア人を抱えたままの独立は、あっという間に内戦まで発展しました。
その戦争は、1991年から1995年まで続きました。
ブランコ・シカティックはそのとき、軍隊で教官をやっていたといいます。
プロフェッショナルのファイターでも、本業は持っているし、37歳ということですでに一線を退いていたとも言われています。
1993年。
ドージョー・チャクリキのトム・ハーリック会長は、ブランコに声をかけました。
「日本からキックボクシングのトーナメントへのオファーが来ている。世界中からファイターが集まるらしい」
と。
出場を即決したそうです。
ブランコ・シカティックは当然全くの無名。しかも、37歳だったのにフジテレビの持っている情報では34歳になっているし、本当に誰も知らない選手でした。(実際当時の実況は34歳と明言している)
それは、ムエタイ最強のチャンプア・ゲッソンリット、優勝候補筆頭の佐竹雅昭、後の4タイムス王者アーネスト・ホーストをすべてパンチによるKOで破り、そのあまりの衝撃に「伝説の拳」の名が付きました。
勝ち方がすべて衝撃的。
ゲッソンリットは右ストレートでロープ際までぶっ飛ばされ、佐竹は「石の拳」を目に入れられ(故意との説もある)、ホーストはカウンターの右クロスで失神させられました。。。。
シカティックは歓喜の中でクロアチアの国旗を広げました。そして、白と赤のその国旗を背負い、テレビカメラに何度か見せていました。
今となっては珍しくもない風景ですが、実は、これが大変意味のあることだったのです。
スポーツの国際舞台の場で、クロアチアの国旗が始めて掲げられた瞬間だったのです。
1993年、クロアチアは内戦中でした。十万人以上の難民が生まれ、それまで仲良く暮らしていたセルビア人とクロアチア人が、隣人同士で血で血を洗う戦いに突入した時期でした。
だから、クロアチア国民にとって、シカティックは大統領よりもある種有名なんだそうです。「クロアチア人」として、初めてクロアチアの旗を世界の舞台で振ったんです。
日本の格闘技ファンにとっては考えもつかないことでしょうが、
シカティックにとっては何よりも国を背負って戦ったという思いがあったのでしょう。
この大会の成功を機に、いや、ブランコ・シカティックの衝撃を機にK-1は徐々に大きなイベントになっていきましたね。
1994年、ブランコ・シカティックは自身がベストバウトというホースト戦(KO勝利)を最後に、リングを降ります。
38歳という年齢がそうさせたのではありません。
独立戦争に参加するためです。
シカティックは特殊コマンド部隊教官として、スポーツ選手で構成された舞台を率いて、実際に戦場に出たといいます。
そして翌年1995年。クロアチア紛争は終結しました。真の独立をクロアチアは果たしたのです。
その後も、シカティックはK-1に出場。41歳と高齢ながら、新鋭武蔵を伝説の拳でKOし復活の狼煙を上げますが、全盛期のグレコ、ベルナルドに連敗。グレコ戦では41歳にして、生涯初のKO負けとなりました。そのときはグレコの猛攻を食らいながら、なんと立ったまま失神していました。本人はKOされていることすら気がつかなかったことでしょう。
年齢には勝てず、シカティックはその拳を終い、実業家として成功していきます。
しかし、祖国クロアチアを知ってもらうためにいろいろな活動を行っており、ドージョーチャクリキジャパンにも2005年顔を出して指導もしています。
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私たちの住む日本は、やはりなんだかんだ言って平和であり、
独立戦争とか、大量の難民とか、空爆の恐怖とか、隣人との殺し合いとか、そんなことを言葉で言われても全くピンと来ません。
体験がないから、リアリティがないんです。それこそ、映画やドラマの世界であり、いまどき戦争なんてゲームの中で追体験するのが精一杯です。
それですら、リセットすれば最初に戻るんですから、これを体験というのはおかしな話ですね。
しかし、私は、「伝説の拳」のあの眼光の中に物凄い説得力を感じました。
幾百の伝承よりも、幾千の映像よりも、あの眼には何か強烈なリアリティがあったんです。
当時は単なる一視聴者でしたので、その後、私はどうしても気になってシカティックがどういう男なのか、調べました。そして、あの当時の情報が少ない中、彼が特殊部隊の教官であり、自らも実戦で生死を分ける戦いをしたことが本人のインタビューで語られている雑誌の記事を発見しました。妙に納得してしまった自分がいました。
平和慣れをした日本に、
生きるか死ぬかという言葉が、文字通りの意味を持つ世界から来た男。
思えば、この男がいなければ、全く世界の格闘技は違った歴史を歩んでいたに違いありません。
まだ、日本の格闘技といえばプロレスかボクシングだった時代に、全く異質な凄み、オーラを持っていました。日本格闘界にとっても、クロアチア国にとっても、エポックメイキングな事件が、1993年のK-1初開催だったんでしょうね。
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しかし、彼の戦争は未だ終わっていないのかも知れません。
シカティックが敬愛し、戦友にして親友とインタビューで答えていたクロアチア独立戦争の英雄ゴトヴィナ将軍は現在、旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷に逮捕され、裁判を待っています。
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私を含めて、平素軟弱を極める日本男児の皆様には、
そんなブランコ・シカティックの有名な名言でこのエントリーを締めくくりましょう。
「チャクリキに痛いという感情はない」
(K-1CHALLENGE’94 ブランコ・シカティック)
いつも「激マジ」な男でした。
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